母乳という言葉が生まれた背景

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母乳という言葉がいつから使われているか、ご存じですか?
日本で母乳という言葉が使われ始めたのは意外と最近で、大正時代からだそうです。

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昔、「母」と「乳」はつながっていなかった…「母乳」という言葉が生まれた背景

江戸時代には「母乳」という言葉はなく、「人乳」「女の乳」と呼ばれていました。
江戸時代は母親が無事であれば「安産」。母親が出産でいのちを落とし、赤ちゃんだけが残されることがめずらしいことではなかったのです。

今でもそうですが、安産でも母乳の量が十分ではないことがありました。

また江戸時代には様々な理由で子どもを育てられない場合、捨て子をすることがありました。捨て子は発見された地域で面倒をみることになっていましたが、捨て子が発見されたとき、まず行われたのは乳の確保でした。

育児用ミルクなどなかった時代、どうしていたのでしょう?
武家や裕福な商家では乳母を雇っていたようですが、一般庶民が行っていたのは「もらい乳」です。さまざまなつてを頼り、乳の出る女性のもとを訪ねて、赤ちゃんに乳をあげてもらっていました。
このように、実母の乳ではなく、ほかの女性から乳をわけてもらうことで赤ちゃんのいのちをつないでいましたので、「人乳」「女の乳」といわれていたと考えられます。

母乳という言葉が使われはじめたのは100年前くらいから

時代が大きく変化した明治時代。都市部では役所や会社に勤め、給与をもらって生活する人々が出現しはじめました。
子どもは授かりものではなく「つくるもの」。医学の進歩や栄養状態の改善によって江戸時代に比べて亡くなる子どもの数が少なくなったこともあり、子どもを少なく産んで大切に育てる選択をするようになります。
また夫は仕事、妻は家庭、という役割分担が明確な時代でしたので、子どもを育てる役割は母親に集中しました。

大正時代(1910年頃)になると、専門家がすすめる「母性愛」にもとづく家庭教育の重要性についてさまざまな本が出版され、子どもの教育に熱心な多くの方々から評価されたベストセラー本もうまれます。

このなかで授乳について触れている本があり、授乳は「実母による哺乳」が推しょうされます。
また大正2年~7年におこなわれていた「赤ん坊展覧会」の「優良赤ん坊」を育てた母親のコメントには「母乳ばかりで(母乳だけで)育てました」というものがあります。

このように約100年前の大正時代から、母乳という言葉が一般的に使われていたと考えられます。

授乳の役割が母親に限定されたなかでうまれた「母乳」という言葉

江戸時代はこどもの命を守ることは容易ではなく、人々のつながりによる「命をはぐくむセーフティネット」が必要で、赤ちゃんの命綱である乳が誰の乳なのかは問われませんでした。

時代がかわってうまれた「都市生活」のなかでは、家庭教育の役割が母親に集中しているなかで、「授乳は実母の乳でおこなうことが大切」という意識が生まれ、「母乳」という言葉が生まれました。

(まとめ)昔、「母」と「乳」はつながっていなかった

昔、母乳は「母乳」と呼ばれていませんでした。
子どもの命を守ることが簡単なことではなく、ひとびとのつながりのなかで乳のセーフティネットがつくられていた江戸時代には、母乳は「人の乳」「女の乳」いわれていました。

大正時代頃から、「実母の乳」に対する意識が高まり、「母」と「乳」をつなげた「母乳」という言葉が生まれました。

赤ちゃんのいのちをはぐくむために大切な栄養の源が母乳であることもかわりません。
現代社会では感染症防止の観点から、「もらい乳」は、医師など専門家による品質管理のもとで行われています。
専門家による適切な指導と情報によって母乳をあげ、母乳が不足していると感じたときは、専門家のサポートが受けることができて、必要な場合は育児用ミルクを取り入れる、というのが現代社会の赤ちゃんのいのちをまもる乳のセーフティネットです。

いつの時代も子育ての基本は「子どもの命を守ること」。
母乳、ミルク、どの栄養方法においても、母親、父親など子育てにかかわるすべての人が、負担が誰かにかたよりすぎることがなく、楽しく子どもの命をはぐくむことができるようになると良いと思います。

江戸時代の「粉ミルク」
乳が足りず、もらい乳もできない場合は、乳の代用品として米をすり鉢でつぶして粉にした摺粉(すりこ)を湯に溶かしてあげていました。授乳のたびに摺粉をつくるのはとても手間がかかり、また成分はほとんどがでん粉ですから、赤ちゃんの成長に十分なものではありませんでした。

出典
沢山美果子著
『近代家族と子育て』 2013年 吉川弘文館
『江戸の乳と子ども いのちをつなぐ』 2017年 吉川弘文館

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